2016/07/04
ひさしぶりに趣味の記事。
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信濃、黒姫山山頂には、石祠がある。
石版には「大毘沙門天、黒姫弁財天、七ツ池龍王」と刻まれている。

黒姫山は標高2,053m、おだやかな山容と登りやすい登山道、素晴らしい展望があり、年に一度は登る山だが、今年あらためて、この石版が気になった。
「七ツ池龍王」は「黒姫伝説」を連想させるが、黒姫山に龍王がいるという説があっただろうか?
「毘沙門天」は上杉氏を連想させる。
そして「黒姫弁財天」である。
三者のつながりが見えにくい並びに、黒姫山信仰とはどういうものであるか、全く知識がないことに気がついた。
戸隠には、江戸初期といわれる「九頭龍弁財天」の美しい像があり、九頭龍神(九頭龍社)と弁財天の信仰が知られる。
しかし「黒姫弁財天」とはなにものだろうか。
戸隠山には戸隠神社、天手力男命をはじめとする天の岩戸開きの神々と地主神の九頭龍神への信仰。
妙高山には関山神社、関山権現、阿弥陀三尊、火祭り。
飯縄山には飯縄神社、飯縄大権現。
山には奥社、里には里宮。
では黒姫山の山頂が奥社としたら、里宮はどこに?
黒姫弁財天を探しに行く。
インターネットで検索しても、意外に関連する記述はでてこない。
石祠がそれなりに古いので、少し古い資料に当たってみる。
こういうときに便利なのが、
『長野縣町村誌』昭和11年刊行。
いわゆる皇国地誌で、明治15年に長野県令あて報告された当時の地勢が記録されている。
そこにはしっかり「黒姫弁財天」の項が設けられている。
信濃町において「黒姫山を祀っているのは雲龍寺さん」というのは常識らしい。
黒姫山信仰、戸隠と妙高の間にある美しい山への信仰のあとをたどりたくなった。
次はゴウロへ。
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信濃、黒姫山山頂には、石祠がある。
石版には「大毘沙門天、黒姫弁財天、七ツ池龍王」と刻まれている。

黒姫山は標高2,053m、おだやかな山容と登りやすい登山道、素晴らしい展望があり、年に一度は登る山だが、今年あらためて、この石版が気になった。
「七ツ池龍王」は「黒姫伝説」を連想させるが、黒姫山に龍王がいるという説があっただろうか?
「毘沙門天」は上杉氏を連想させる。
そして「黒姫弁財天」である。
三者のつながりが見えにくい並びに、黒姫山信仰とはどういうものであるか、全く知識がないことに気がついた。
戸隠には、江戸初期といわれる「九頭龍弁財天」の美しい像があり、九頭龍神(九頭龍社)と弁財天の信仰が知られる。
しかし「黒姫弁財天」とはなにものだろうか。
戸隠山には戸隠神社、天手力男命をはじめとする天の岩戸開きの神々と地主神の九頭龍神への信仰。
妙高山には関山神社、関山権現、阿弥陀三尊、火祭り。
飯縄山には飯縄神社、飯縄大権現。
山には奥社、里には里宮。
では黒姫山の山頂が奥社としたら、里宮はどこに?
黒姫弁財天を探しに行く。
インターネットで検索しても、意外に関連する記述はでてこない。
石祠がそれなりに古いので、少し古い資料に当たってみる。
こういうときに便利なのが、
『長野縣町村誌』昭和11年刊行。
いわゆる皇国地誌で、明治15年に長野県令あて報告された当時の地勢が記録されている。
そこにはしっかり「黒姫弁財天」の項が設けられている。

『長野縣町村史』昭和11年発行 P.524)
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(以下引用、新字体にあらためている)
「石祠黒姫山の嶺上にあり。里俗伝に、大宝2年役の小角この山に登り、七ツ池に至り弁財天を拝す。寛仁4年9月、恵心僧都この山に登りて誓願し、黒姫弁財天の像を刻み、仏体となす。(相模国江ノ島弁財天と同体なりという)
本村宝教寺(字五輪堂にあり)右、弁財天の別当となる。
数世を経て、元和元年、下水内郡永江村天正寺住僧明室、宝教寺へ転住す。
その弟子、僧 潭深雲龍継ぐ。
延宝2年6月、この寺を字赤渋へ移し、黒姫山雲龍寺と改称し、旧のごとく黒姫弁財天の別当たり。宝永3年領主永井伊賀守深く信仰し、大般若経600巻を寄付す。
のち宝暦6年、永井氏、その臣 阿部甚七なるものを使わして、字ゴウロにおいて里堂を建設し、杉苗千本を植えしむ。(以下略)」
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寺社のなりたちで、有名な「役の小角(えんのおづぬ、飛鳥〜奈良時代、修験道の祖といわれる)」や「恵心僧都(えしんそうず、源信、平安中期の天台宗の僧、『往生要集』)」を出す場合、ほとんど名義借りであるとはよくいわれる。
丁寧に年号を記しつつ、大宝元(701)年に没したとされる役の小角の来訪を、翌大宝2年としていたり、寛仁元(1017)年に没したとされる恵心僧都の来訪を、寛仁4年としたりという点で、ほぼニアミスのため、日本史の大要が把握されている江戸中後期頃の認識と思われる。
または伝説を明治初期の役人が記述する際、それらしく仕上げたか。
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(以下引用、新字体にあらためている)
「石祠黒姫山の嶺上にあり。里俗伝に、大宝2年役の小角この山に登り、七ツ池に至り弁財天を拝す。寛仁4年9月、恵心僧都この山に登りて誓願し、黒姫弁財天の像を刻み、仏体となす。(相模国江ノ島弁財天と同体なりという)
本村宝教寺(字五輪堂にあり)右、弁財天の別当となる。
数世を経て、元和元年、下水内郡永江村天正寺住僧明室、宝教寺へ転住す。
その弟子、僧 潭深雲龍継ぐ。
延宝2年6月、この寺を字赤渋へ移し、黒姫山雲龍寺と改称し、旧のごとく黒姫弁財天の別当たり。宝永3年領主永井伊賀守深く信仰し、大般若経600巻を寄付す。
のち宝暦6年、永井氏、その臣 阿部甚七なるものを使わして、字ゴウロにおいて里堂を建設し、杉苗千本を植えしむ。(以下略)」
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寺社のなりたちで、有名な「役の小角(えんのおづぬ、飛鳥〜奈良時代、修験道の祖といわれる)」や「恵心僧都(えしんそうず、源信、平安中期の天台宗の僧、『往生要集』)」を出す場合、ほとんど名義借りであるとはよくいわれる。
丁寧に年号を記しつつ、大宝元(701)年に没したとされる役の小角の来訪を、翌大宝2年としていたり、寛仁元(1017)年に没したとされる恵心僧都の来訪を、寛仁4年としたりという点で、ほぼニアミスのため、日本史の大要が把握されている江戸中後期頃の認識と思われる。
または伝説を明治初期の役人が記述する際、それらしく仕上げたか。
年号のずれは、当時の知識によるものか、意図的なものかは不明。
具体的になるのは、下水内郡永江村からのつながりである。
永江村は、飯山藩に属し、今の中野市豊田にある。
飯山藩における位置づけ、黒姫伝説に語られる中野高梨氏(黒姫は高梨氏の姫とする伝説が多い)とのつながりが、この辺の由来だろうか。
具体的になるのは、下水内郡永江村からのつながりである。
永江村は、飯山藩に属し、今の中野市豊田にある。
飯山藩における位置づけ、黒姫伝説に語られる中野高梨氏(黒姫は高梨氏の姫とする伝説が多い)とのつながりが、この辺の由来だろうか。
地名と現状から、根拠がありそうだと思われるのは以下の点。
・まず、五輪堂という場所に、黒姫弁財天が祀られた。
・永江村から来た僧が、これを継いだ。
・その弟子の僧「雲龍」が、赤渋に移転し、黒姫山雲龍寺と改称した。
・字ゴウロに里堂を建てた。
宝永元年(1704)に、播磨赤穂藩から移封された永井直敬(江戸時代の譜代大名、1664〜1711、1706〜1711飯山藩主)が、着任後に大般若経の類を寄付したというのは、ありそうである。寺に伝えられているかもしれない。
だが、永井氏は宝永8(1711)年に武蔵岩槻藩へ移封されるので、宝暦年間(1756)の記録は「本多氏(飯山藩主1717〜廃藩置県まで)」であろうか。
が、享保2(1717)年以降この地域は幕府領となるため、あいまいとなる。
阿部甚七なる人物は、いたかもしれない。
ただ、このころ杉千本を植えることができる所領を、雲龍寺が保有して、それが字ゴウロのあたりであり、そこへ里堂を建てた、ということは具体的な事実と思われる。
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・永江村から来た僧が、これを継いだ。
・その弟子の僧「雲龍」が、赤渋に移転し、黒姫山雲龍寺と改称した。
・字ゴウロに里堂を建てた。
宝永元年(1704)に、播磨赤穂藩から移封された永井直敬(江戸時代の譜代大名、1664〜1711、1706〜1711飯山藩主)が、着任後に大般若経の類を寄付したというのは、ありそうである。寺に伝えられているかもしれない。
だが、永井氏は宝永8(1711)年に武蔵岩槻藩へ移封されるので、宝暦年間(1756)の記録は「本多氏(飯山藩主1717〜廃藩置県まで)」であろうか。
が、享保2(1717)年以降この地域は幕府領となるため、あいまいとなる。
阿部甚七なる人物は、いたかもしれない。
ただ、このころ杉千本を植えることができる所領を、雲龍寺が保有して、それが字ゴウロのあたりであり、そこへ里堂を建てた、ということは具体的な事実と思われる。
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信濃町柏原赤渋 雲龍寺を訪問。
寺の一角には「弁財尊天」の祠があり、近年新しくなったという
「黒姫里之宮
黒姫山に
上之宮
寺の一角には「弁財尊天」の祠があり、近年新しくなったという
「黒姫里之宮
黒姫山に
上之宮
中之宮
里之宮
の三体有り。
山宝水の湧き出る恵みを祀った祠です」
という碑がある。

里之宮
の三体有り。
山宝水の湧き出る恵みを祀った祠です」
という碑がある。

山頂に上之宮、雲龍寺に里之宮、そしてゴウロに中之宮、
水神である。
ということらしい。
ちなみに聞くところによると、
・黒姫弁財天の像は無い
・水害等で寺の場所は変わっている
とのことで、弁財天そのものは確認できない。
ということらしい。
ちなみに聞くところによると、
・黒姫弁財天の像は無い
・水害等で寺の場所は変わっている
とのことで、弁財天そのものは確認できない。
信濃町において「黒姫山を祀っているのは雲龍寺さん」というのは常識らしい。
黒姫山信仰、戸隠と妙高の間にある美しい山への信仰のあとをたどりたくなった。
次はゴウロへ。
黒姫伝説については、いずれ類型を整理したい。