2016/08/21
黒姫山という山は、このあたりには三座あるのだが、信濃の黒姫山のほかは、新潟県の青梅黒姫山と刈羽黒姫山である。
ということで、刈羽黒姫山へ。

長野からは、117号線で約3時間。
柏崎市高柳!「荻ノ島かやぶきの里」の環状集落では、日本で一番美味しいお米だと思う稲穂が実っていました!美しい光景。

刈羽黒姫山は、高柳の黒姫キャンプ場から、登り1時間。
いくつかコースがある中で、とてもアクセスが良いのが、今回の磯野辺コース。
登山口の標高は430m、山頂の標高は891m。
米山、八石山とともに刈羽三山と数えられる信仰の山。

山容は険しさもあるが、登山道はゆるい尾根道。
地元の人の整備や案内がきちんとしていて登りやすい。


水と機織りの神として信仰を集めているとのこと。

黒姫神?

そばには三十三観音の石仏があり、山頂には二つの石祠と不動明王が祀られている。

山の反対側に「黒姫神社」があり、古くから黒姫山を祀っている(一説には応永2年(1395年)の記述も)が、高柳側にも、黒姫社があった。

如意輪観音は、柏崎では黒姫神またはミズハノメカミの本地仏だそう。
さて、この鵜川神社の里宮は、柏崎市の街中にある「鵜川神社」だという。
この鵜川神社は『延喜式神名帳』にも比定される古い神社で、黒姫山を水源とする鵜川の水の恵みを祀るものが由来という。
その祭神は、誉田別尊、配神は息長足姫尊、玉依姫尊、菅原道眞、素盞嗚尊、稻田姫命とのことだが、黒姫神でもミズハノメカミでも奴奈川姫でもない。

ということで、刈羽黒姫山へ。

長野からは、117号線で約3時間。
柏崎市高柳!「荻ノ島かやぶきの里」の環状集落では、日本で一番美味しいお米だと思う稲穂が実っていました!美しい光景。

刈羽黒姫山は、高柳の黒姫キャンプ場から、登り1時間。
いくつかコースがある中で、とてもアクセスが良いのが、今回の磯野辺コース。
登山口の標高は430m、山頂の標高は891m。
米山、八石山とともに刈羽三山と数えられる信仰の山。
1時間は登山としては短いが、この山に登るためによく開かれているという感じ。

山容は険しさもあるが、登山道はゆるい尾根道。
地元の人の整備や案内がきちんとしていて登りやすい。

ブナ林が美しい。


9号目には「鵜川神社」が祀られている。
祭神は「ミズハノメカミ」と「黒姫神」
祭神は「ミズハノメカミ」と「黒姫神」

水と機織りの神として信仰を集めているとのこと。

黒姫神?

そばには三十三観音の石仏があり、山頂には二つの石祠と不動明王が祀られている。
古くからの信仰が伺える姿である。

山の反対側に「黒姫神社」があり、古くから黒姫山を祀っている(一説には応永2年(1395年)の記述も)が、高柳側にも、黒姫社があった。

集落の里宮という風情だが、越後三十三番札所の第9番となっていて、祀られているのは「黒姫如意輪観音」でした。
如意輪観音は、柏崎では黒姫神またはミズハノメカミの本地仏だそう。
脱線ですが、この越後三十三観音霊場の第9番は、HPによると柏崎市高柳の広済寺である。
その由来には、黒姫山の信仰と、破損してしまった如意輪観音の仏像の説話があるが、たしかにこの祠の如意輪観音の首は損傷していた。そしてここは広済寺とは少し離れているのだが…地理軸も時間軸も交錯している。
さて、この鵜川神社の里宮は、柏崎市の街中にある「鵜川神社」だという。
この鵜川神社は『延喜式神名帳』にも比定される古い神社で、黒姫山を水源とする鵜川の水の恵みを祀るものが由来という。
その祭神は、誉田別尊、配神は息長足姫尊、玉依姫尊、菅原道眞、素盞嗚尊、稻田姫命とのことだが、黒姫神でもミズハノメカミでも奴奈川姫でもない。
(ウガヤフキアエズという論もあり)
青海黒姫山の黒姫権現は、奴奈川姫のようだが…行ってみないと!
ところで、この柏崎の鵜川神社一帯は「琵琶島城」の一部であり、城主は宇佐美氏という。
あの野尻湖の弁天島(かつては芙蓉湖の琵琶島)で、上杉景勝の実父長尾政景とともに没した宇佐美定満の宇佐美氏である。
この名称のつながりも気になるところ。
ところで、この柏崎の鵜川神社一帯は「琵琶島城」の一部であり、城主は宇佐美氏という。
あの野尻湖の弁天島(かつては芙蓉湖の琵琶島)で、上杉景勝の実父長尾政景とともに没した宇佐美定満の宇佐美氏である。
この名称のつながりも気になるところ。

高柳磯野辺の黒姫社の傍にあった石仏。
読み取れないが愛宕権現?
この辺の石仏も表情豊か。
反対側の級長戸辺神(シナトベノミコト)、珍しい風の神の石仏と刈羽黒姫山の遠景。
2016/07/29
新潟県糸魚川市の権現岳1,104mは、
単独で登られることはあまり無く、鉾ヶ岳と縦走するコースが一般的のよう。
権現岳の「権現」とは「白山権現」と思われる。
権現岳は登り2時間40分、下り1時間40分と飯縄山並みのコースタイムが標準。
鉾ヶ岳のグレーディングは3Cと、長野県で言えば雨飾山や有明山くらい、登り甲斐のある山のようだが、あまり知られていない。

ちょっと奥社にお参りに…と思ったのだけど、本格登山でした。
柵口温泉から入山。
登山口にはちゃんと登山届ノートがあり、案内標識はしっかりしてます。

山を見ればわかるとおり、急登です。


この山では「たいまつ登山」という、6月の残雪のある時期に夜たいまつを掲げて登るという、恐ろしく修験道的な行事が行われているのだが、この登山道では相当難易度が高い気がする。
胎内くぐりを経て、天狗が住んだという「天狗屋敷」を通り、突如現れるのが「奥社」。
白山宮と掲げられた岩壁の稜線は、別天地。

権現岳は修験の山で、神が祀られていた。
でも信州黒姫山とのつながりは見えない。
単独で登られることはあまり無く、鉾ヶ岳と縦走するコースが一般的のよう。
権現岳の「権現」とは「白山権現」と思われる。
権現岳は登り2時間40分、下り1時間40分と飯縄山並みのコースタイムが標準。
鉾ヶ岳のグレーディングは3Cと、長野県で言えば雨飾山や有明山くらい、登り甲斐のある山のようだが、あまり知られていない。

ちょっと奥社にお参りに…と思ったのだけど、本格登山でした。
柵口温泉から入山。
登山口にはちゃんと登山届ノートがあり、案内標識はしっかりしてます。

山を見ればわかるとおり、急登です。
イメージとしては、「いきなり高妻のピークが目の前に」という感じ。
しかも、垂直の岩まじりの斜面は、足掛かりの少ない滑りやすい土で、かろうじてある確保は「番線」という状況。
ロープが多発してきます。
しかも、垂直の岩まじりの斜面は、足掛かりの少ない滑りやすい土で、かろうじてある確保は「番線」という状況。
ロープが多発してきます。

ところどころ不安になりつつ、文字通りよじ登って出るのが「胎内くぐり」。
奴奈川姫が住んでいたという洞穴の中を、ロープを頼りに登り下りします。
奴奈川姫が住んでいたという洞穴の中を、ロープを頼りに登り下りします。

「胎内くぐり」は生まれ変わりや再生の場というけれど(善光寺の戒壇巡りも思考的には同じ)、確かに「蟻の塔渡り」のような修験の気配が濃密でした。
この山では「たいまつ登山」という、6月の残雪のある時期に夜たいまつを掲げて登るという、恐ろしく修験道的な行事が行われているのだが、この登山道では相当難易度が高い気がする。
胎内くぐりを経て、天狗が住んだという「天狗屋敷」を通り、突如現れるのが「奥社」。
白山宮と掲げられた岩壁の稜線は、別天地。
確かにここには神が降り立つ。
山頂ではなく、湯沢川の流域から日本海、上越方面や頚城山塊を見渡す稜線の岩の上に、この地域の祖先神が祀られているということにものすごく納得。
ジオパークのまち「権現岳〜鉾ヶ岳」
http://itoigawa-kanko.muse.weblife.me/leisure/leisure_03_05.html

地形は信仰の由来となる。
その場所に行ってみて気がつくこともある。
ジオパークのまち「権現岳〜鉾ヶ岳」
http://itoigawa-kanko.muse.weblife.me/leisure/leisure_03_05.html

地形は信仰の由来となる。
その場所に行ってみて気がつくこともある。

権現岳は修験の山で、神が祀られていた。
でも信州黒姫山とのつながりは見えない。
2016/07/28
黒姫山に祀られているのは「黒姫弁財天」であるというのがはじまりで、確かに信濃町雲龍寺に里宮があった。
しかし、この神仏の性格・由来がわからない。
弁財天というのは、いろいろな女神の本地となる。
【本地垂迹説】————
本地である仏・菩薩が,救済する衆生の能力に合わせた形態をとってこの世に出現してくるという説。日本では神道の諸神を垂迹と考える神仏習合思想が鎌倉時代に整備されたが,その発生は平安以前にさかのぼる。垂迹である神と,本地である仏・菩薩との対応は必ずしも一定していない。
————————大辞林
日本三大弁天と言われる神社では
・滋賀県竹生島は市杵島比売命(ただし産土神は浅井比売命)
・神奈川県江ノ島は宗像三女神(多紀理比賣命、市寸島比賣命、田寸津比賣命)
・広島県厳島神社も宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫)
と、いずれも宗像系の海の神を祀っている。
ただし、飛鳥時代に役行者が開創したと伝えられ、三大弁天に入れることもある、奈良県吉野・天河神社の「天河弁財天」は、はじめから弁財天であり、神仏分離によって市杵島姫命となったが、瀬織津姫の説もある。
黒姫弁財天に関しては、いまのところ記録はみつからないので、少し視点を離してみる。
---------------------------------
長野では唯一の黒姫山だが、新潟では、頚城山塊をとりまく三つの黒姫山の一つとして認識されているという。
信州黒姫山と青梅黒姫山、刈羽黒姫山の三つである。
北信と上越地方は、武田上杉の争いの舞台となり領域が有為転変したように、もともと地理的文化的な近さがあり、特に善光寺平以北は、上杉氏の関与が深い。
そんな距離感にある、同じ名前の山である。
こちらに無いなら、向こうを調べればヒントがあるかもしれない、と思って調べてみる。
青梅黒姫山(糸魚川市) 1,222m 三百名山
山頂は黒姫権現を祀る。
「黒姫権現とは沼河姫(ヌナカワヒメ)である」という説と、
「奴奈川姫の母が黒姫命である」という説がある。
刈羽黒姫山(柏崎市) 889.5m
山頂近くに鵜川神社を祀る。
「鵜川神社」祭神は美都波能売神(ミヅハノメカミ)と黒姫大明神。
「黒姫大明神は奴奈川姫(ヌナカワヒメ)命である」
??
新潟の黒姫山に祀られているのは奴奈川姫。
(表記が多様だが、ここでは奴奈川姫で統一)
信州黒姫山にはいない「黒姫権現」や「黒姫大明神」が祀られ、それは奴奈川姫という。
奴奈川姫とはなにか。
糸魚川市ホームページ
「奴奈川姫の伝説」
奴奈川姫は『古事記』に登場する「高志国」の姫であり、出雲から来た大国主の妃となった。諏訪神社のご祭神である建御名方神(タケミナカタ)を生んだともいわれる。
国譲りの神である大国主の一族が出雲から移動し、新潟の土豪と結びつき、新たな集団を作り内陸へ糸魚川をさかのぼり、守屋の一族と諏訪信仰を生んだ、古代の人の流れの物語の一端をしのばせる。
黒姫山と奴奈川姫の伝説が結びつくのなら、思っているよりも古い由来となる。
奴奈川姫と黒姫のつながりを探して、新潟へ行く。
---------------------------------
『延喜式』(平安中期編纂)にある「奴奈川神社」が、最も古い奴奈川姫を祀る神社の記録だが、現在地は明確ではない。
候補の一つが、糸魚川市の能生白山神社である。

能生白山神社はかつて奴奈川神社と称し、この一帯の産土神であり、もとは「高志峰」にあった。
「高志峰」は、いまの「権現岳」であり、奥社が祀られているという。
奈良時代に加賀白山神社を開いた泰澄法師が白山信仰を布教し、白山神社となった。
(ただし祭神は大国主と奴奈川姫と伊奘諾命で、白山比咩神=菊理媛を祀っていない)
では、奴奈川姫を初期に祀ったのは、権現岳の奥社だろうか。
ということで、権現岳に登ります。

能生白山神社、補修工事中でした。
茅葺の拝殿は江戸時代の見事な建物。
しかし、この神仏の性格・由来がわからない。
弁財天というのは、いろいろな女神の本地となる。
【本地垂迹説】————
本地である仏・菩薩が,救済する衆生の能力に合わせた形態をとってこの世に出現してくるという説。日本では神道の諸神を垂迹と考える神仏習合思想が鎌倉時代に整備されたが,その発生は平安以前にさかのぼる。垂迹である神と,本地である仏・菩薩との対応は必ずしも一定していない。
————————大辞林
日本三大弁天と言われる神社では
・滋賀県竹生島は市杵島比売命(ただし産土神は浅井比売命)
・神奈川県江ノ島は宗像三女神(多紀理比賣命、市寸島比賣命、田寸津比賣命)
・広島県厳島神社も宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫)
と、いずれも宗像系の海の神を祀っている。
ただし、飛鳥時代に役行者が開創したと伝えられ、三大弁天に入れることもある、奈良県吉野・天河神社の「天河弁財天」は、はじめから弁財天であり、神仏分離によって市杵島姫命となったが、瀬織津姫の説もある。
黒姫弁財天に関しては、いまのところ記録はみつからないので、少し視点を離してみる。
---------------------------------
長野では唯一の黒姫山だが、新潟では、頚城山塊をとりまく三つの黒姫山の一つとして認識されているという。
信州黒姫山と青梅黒姫山、刈羽黒姫山の三つである。
北信と上越地方は、武田上杉の争いの舞台となり領域が有為転変したように、もともと地理的文化的な近さがあり、特に善光寺平以北は、上杉氏の関与が深い。
そんな距離感にある、同じ名前の山である。
こちらに無いなら、向こうを調べればヒントがあるかもしれない、と思って調べてみる。
青梅黒姫山(糸魚川市) 1,222m 三百名山
山頂は黒姫権現を祀る。
「黒姫権現とは沼河姫(ヌナカワヒメ)である」という説と、
「奴奈川姫の母が黒姫命である」という説がある。
刈羽黒姫山(柏崎市) 889.5m
山頂近くに鵜川神社を祀る。
「鵜川神社」祭神は美都波能売神(ミヅハノメカミ)と黒姫大明神。
「黒姫大明神は奴奈川姫(ヌナカワヒメ)命である」
??
新潟の黒姫山に祀られているのは奴奈川姫。
(表記が多様だが、ここでは奴奈川姫で統一)
信州黒姫山にはいない「黒姫権現」や「黒姫大明神」が祀られ、それは奴奈川姫という。
奴奈川姫とはなにか。
糸魚川市ホームページ
「奴奈川姫の伝説」
奴奈川姫は『古事記』に登場する「高志国」の姫であり、出雲から来た大国主の妃となった。諏訪神社のご祭神である建御名方神(タケミナカタ)を生んだともいわれる。
国譲りの神である大国主の一族が出雲から移動し、新潟の土豪と結びつき、新たな集団を作り内陸へ糸魚川をさかのぼり、守屋の一族と諏訪信仰を生んだ、古代の人の流れの物語の一端をしのばせる。
黒姫山と奴奈川姫の伝説が結びつくのなら、思っているよりも古い由来となる。
奴奈川姫と黒姫のつながりを探して、新潟へ行く。
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『延喜式』(平安中期編纂)にある「奴奈川神社」が、最も古い奴奈川姫を祀る神社の記録だが、現在地は明確ではない。
候補の一つが、糸魚川市の能生白山神社である。

能生白山神社はかつて奴奈川神社と称し、この一帯の産土神であり、もとは「高志峰」にあった。
「高志峰」は、いまの「権現岳」であり、奥社が祀られているという。
奈良時代に加賀白山神社を開いた泰澄法師が白山信仰を布教し、白山神社となった。
(ただし祭神は大国主と奴奈川姫と伊奘諾命で、白山比咩神=菊理媛を祀っていない)
では、奴奈川姫を初期に祀ったのは、権現岳の奥社だろうか。
ということで、権現岳に登ります。

能生白山神社、補修工事中でした。
茅葺の拝殿は江戸時代の見事な建物。
2016/07/17
黒姫弁財天を探しながら、気になる民話に出会った。
信濃町の「ポックリ地蔵」。
戸隠と信濃町の関わりが偲ばれる民話である。
あらすじは
「仁之倉によく働くじいさまがいて、戸隠へ米や蕎麦を運び、黒姫山の草刈りをして暮らしていた。
ある日、黒姫山麓の笹原で地蔵の石仏を見つけ、ノゾキ井戸という畳一枚ほどの泉のほとりに移した。
通るたびにお参りし、日々よく働いた。
20年よく働き、85歳でお地蔵さまをお連れし、90まで働き、ぽっくりと亡くなった。
じいさまにあやかって、ポックリ地蔵と呼び、みなお参りするようになった」
というお話。
全文は、良いアーカイブであるJAながの「ふるさとの民話」で、倉石画伯の挿絵とともにどうぞ。
ふるさとの民話「ポックリ地蔵」
http://www.ja-nagano.iijan.or.jp/legend/2011/03/92.php
戸隠から仁之倉を通り、北国街道へつながる道は「越後道」とよばれ、信濃町側では「戸隠山道」という。
戸隠からは豊岡、折橋で鬼無里からの道と合流し、善光寺へ、また峠を越え小市から篠ノ井へと続く巡礼と物流の道である。
折橋は物資の参集地として賑わい、信濃町を朝発った荷馬がちょうど昼に着くので、農家は昼食の目安にしたという。(『柵村誌』より)
そんな往来が、人の生活として感じられる民話だと思う。
仁之倉、黒姫山、戸隠の他に、場所を示すものとして
じいさまがお地蔵さま見つけた山奥の笹っ原、
街道すじの「ノゾキ井戸」という泉、
が記録されている。
------------------------------------------
まず、仁之倉「ポックリ地蔵」をお参りしに行く。
小林一茶生母の家にほど近い、旧道筋に道標があり、民家の庭先に安置されている。
お参りして、失礼ながらとよく見て驚いたことに
お地蔵さまではない!
「厄除観音」!
「駒形石 厄除観音 文化元年 大聖院 建立」
と読み取れる。
大聖院は、江戸初〜中期創立、明治7年廃寺となった仁之倉の寺である。
山号は「飯縄山大聖院」であったと『長野県町村誌』にある。
町村誌には、大聖院を含め、明治初期に廃寺となった3つの寺が記録され、廃仏毀釈により整理されたと推測される。
駒形石という岩が近くにあったのだろうか?
石仏の形態がどうであれ
・仁之倉に元気で信心深いじいさまがいて、大事に祀っていた石仏があった。
・石仏はじいさまにあやかって「ポックリ地蔵」と呼ばれた。
という民話の筋は変わらない。
また、家にお連れしようと思ったけど、やはりそのままにしておいて、今もまだ山中の泉のそばにお地蔵さまがある、という景色も 思い描ける。
-----------------------------------------------
さて、「ノゾキ井戸」である。
街道筋の「畳1枚ほどの泉」といって連想するのは、県道沿いにある「一杯清水」である。
井戸は井戸であって、泉の名前にしっくりこないが、少なくとも「ノゾキ」というのだから、高いところにあって下を見おろす地形だろうが、県道整備によって当時の地形はわからなくなっている。
「一杯清水」も地形図や「山と高原地図」に記載がありながら、看板等はないので、県道を通るたびに気になっていた。
地図をたよりに探してみると、草薮のなかに確かにそれらしき泉があった。
山道の貴重な水場であっただろう小さな泉で、そばに馬頭観音が二つ。
一つには「右 やまみち 左 とがくし」という明治29年のもの(左)。

信濃町の「ポックリ地蔵」。
戸隠と信濃町の関わりが偲ばれる民話である。
あらすじは
「仁之倉によく働くじいさまがいて、戸隠へ米や蕎麦を運び、黒姫山の草刈りをして暮らしていた。
ある日、黒姫山麓の笹原で地蔵の石仏を見つけ、ノゾキ井戸という畳一枚ほどの泉のほとりに移した。
通るたびにお参りし、日々よく働いた。
20年よく働き、85歳でお地蔵さまをお連れし、90まで働き、ぽっくりと亡くなった。
じいさまにあやかって、ポックリ地蔵と呼び、みなお参りするようになった」
というお話。
全文は、良いアーカイブであるJAながの「ふるさとの民話」で、倉石画伯の挿絵とともにどうぞ。
ふるさとの民話「ポックリ地蔵」
http://www.ja-nagano.iijan.or.jp/legend/2011/03/92.php
戸隠から仁之倉を通り、北国街道へつながる道は「越後道」とよばれ、信濃町側では「戸隠山道」という。
戸隠からは豊岡、折橋で鬼無里からの道と合流し、善光寺へ、また峠を越え小市から篠ノ井へと続く巡礼と物流の道である。
折橋は物資の参集地として賑わい、信濃町を朝発った荷馬がちょうど昼に着くので、農家は昼食の目安にしたという。(『柵村誌』より)
そんな往来が、人の生活として感じられる民話だと思う。
仁之倉、黒姫山、戸隠の他に、場所を示すものとして
じいさまがお地蔵さま見つけた山奥の笹っ原、
街道すじの「ノゾキ井戸」という泉、
が記録されている。
------------------------------------------
まず、仁之倉「ポックリ地蔵」をお参りしに行く。
小林一茶生母の家にほど近い、旧道筋に道標があり、民家の庭先に安置されている。
お参りして、失礼ながらとよく見て驚いたことに
お地蔵さまではない!

「厄除観音」!
「駒形石 厄除観音 文化元年 大聖院 建立」
と読み取れる。
大聖院は、江戸初〜中期創立、明治7年廃寺となった仁之倉の寺である。
山号は「飯縄山大聖院」であったと『長野県町村誌』にある。
町村誌には、大聖院を含め、明治初期に廃寺となった3つの寺が記録され、廃仏毀釈により整理されたと推測される。
駒形石という岩が近くにあったのだろうか?
石仏の形態がどうであれ
・仁之倉に元気で信心深いじいさまがいて、大事に祀っていた石仏があった。
・石仏はじいさまにあやかって「ポックリ地蔵」と呼ばれた。
という民話の筋は変わらない。
また、家にお連れしようと思ったけど、やはりそのままにしておいて、今もまだ山中の泉のそばにお地蔵さまがある、という景色も 思い描ける。
-----------------------------------------------
さて、「ノゾキ井戸」である。
街道筋の「畳1枚ほどの泉」といって連想するのは、県道沿いにある「一杯清水」である。
井戸は井戸であって、泉の名前にしっくりこないが、少なくとも「ノゾキ」というのだから、高いところにあって下を見おろす地形だろうが、県道整備によって当時の地形はわからなくなっている。
「一杯清水」も地形図や「山と高原地図」に記載がありながら、看板等はないので、県道を通るたびに気になっていた。
地図をたよりに探してみると、草薮のなかに確かにそれらしき泉があった。
山道の貴重な水場であっただろう小さな泉で、そばに馬頭観音が二つ。
一つには「右 やまみち 左 とがくし」という明治29年のもの(左)。

戸隠イースタンキャンプ場の前にも
「右 やまみち 左 えちご道」
とかかれた道標がある。

いろいろみていくと、左右の行き先を示す案内の文字は、旧道の分岐点に置かれる道標や石仏に刻まれることが多い。
一杯清水も水場なので、「ひと息ついたあとに方向を見失う道迷い」を防ぐ目的で置かれたのかもしれない。
また、仁之倉の知人に「一杯清水」について
「一杯清水は、かつて茶屋があって、泉のほとりには柳の木があった。
県道をバスが通っていた頃は、「一杯清水」というバス停があった」
という話を聞いた。
ノゾキ井戸にはたどり着けないが、山道の往時と、県道のなりたちが偲ばれる。
--------------------------------
余談だが、個人的に気になるのは
「新しい年が来るたび、年を一つずつ減らしていくように、体がよく動いた」
というくだりである。
妙に具体的なじいさまの年齢は
65歳 お地蔵さまを見つける。以後20年よく働く。
85歳 思い立ちお地蔵さまをお連れする
90歳 ぽっくりと亡くなる。
すでに物語のはじめで65歳と、当時にしては高齢なのに、毎年減っていくと、20年働いて45歳並み?
「よく働くことができてよかった」というのは、「ラクして幸せになった」という「めでたし」とは別の功徳である。
逆浦島太郎というか、「ノゾキ井戸」という異界の入り口から何かを得て、若返りの幸を得る異界訪問譚としてみると、ちょっと面白いが、また別の物語になりそう。
「右 やまみち 左 えちご道」
とかかれた道標がある。

いろいろみていくと、左右の行き先を示す案内の文字は、旧道の分岐点に置かれる道標や石仏に刻まれることが多い。
一杯清水も水場なので、「ひと息ついたあとに方向を見失う道迷い」を防ぐ目的で置かれたのかもしれない。
また、仁之倉の知人に「一杯清水」について
「一杯清水は、かつて茶屋があって、泉のほとりには柳の木があった。
県道をバスが通っていた頃は、「一杯清水」というバス停があった」
という話を聞いた。
ノゾキ井戸にはたどり着けないが、山道の往時と、県道のなりたちが偲ばれる。
--------------------------------
余談だが、個人的に気になるのは
「新しい年が来るたび、年を一つずつ減らしていくように、体がよく動いた」
というくだりである。
妙に具体的なじいさまの年齢は
65歳 お地蔵さまを見つける。以後20年よく働く。
85歳 思い立ちお地蔵さまをお連れする
90歳 ぽっくりと亡くなる。
すでに物語のはじめで65歳と、当時にしては高齢なのに、毎年減っていくと、20年働いて45歳並み?
「よく働くことができてよかった」というのは、「ラクして幸せになった」という「めでたし」とは別の功徳である。
逆浦島太郎というか、「ノゾキ井戸」という異界の入り口から何かを得て、若返りの幸を得る異界訪問譚としてみると、ちょっと面白いが、また別の物語になりそう。
2016/07/13
さて「ゴウロ」である。
『長野県町村誌』に「黒姫弁財天の里堂は字ゴウロにあり」と記録されている、里堂を探しに行く。
ゴウロとは、芋井の狢郷路山(むじなごうろやま)や、木島平の朝日ゴウロ(古墳)のように、岩っぽい場所を指すことが多い名前である。
しかし、普通の地図で信濃町を見ても、地名としては見あたらない。
自分の住んでいない土地の「字」名を探るのは、けっこう難しい。
地図を見てもわからなかったが、雲龍寺さんから場所を教えてもらうことができた。
黒姫山の表登山道(東登山道)の入り口にある、町民の森近くに「ゴウロ」があるとのことだった。
(教えてもらわなければ分からなかった!)
通りかかっても意識しにくいところに、きちんと看板が立っている。
「黒姫山別当職 寳林禅寺 雲龍寺中之宮跡 是より250m先」と書かれた看板が、ゴウロの入り口とのことだった。

黒姫山の裾野の森の中だが、かつては採石場であり、材木を育てる場であったのだろう。
よく見ると灌木の下に、ところどころ巨岩が眠っている。
黒姫山の稜線が、木々の合間からはっきりと見える。
山を拝める場所だ。
たしかにここは、古い信仰の跡であると感じられた。
-------------------------------
つぎは、はじめに黒姫弁財天が祀られたという「五輪堂」を探す。
『町村誌』に「恵心僧都が黒姫山に登って黒姫弁財天の像を作り、五輪堂にある宝教寺に祀った」とある五輪堂である。
(このへんは別説もあるので、要検証)
ネットで検索すると、『柏原町区史』に五輪堂(遺跡)に関する記述があることがわかった。
また、踏切の名称に「五輪堂」があることから、大体の場所がつかめる。
「五輪堂遺跡」は、縄文時代と平安期の出土があり、古くから人の住んでいた場所らしい。
五輪堂踏切を起点に、黒姫山の方へ道を辿ると、古い道標に出会う。
「右 戸隠山道 左 さくば道」
と描かれている。
古道の交差する道しるべである。


(ちなみに五輪堂踏切は、1987年に「球電」と言われる発光現象が撮影されたことでも有名らしく、検索の過程で不思議な画像にも出会った)
『長野県町村誌』に「黒姫弁財天の里堂は字ゴウロにあり」と記録されている、里堂を探しに行く。
ゴウロとは、芋井の狢郷路山(むじなごうろやま)や、木島平の朝日ゴウロ(古墳)のように、岩っぽい場所を指すことが多い名前である。
しかし、普通の地図で信濃町を見ても、地名としては見あたらない。
自分の住んでいない土地の「字」名を探るのは、けっこう難しい。
地図を見てもわからなかったが、雲龍寺さんから場所を教えてもらうことができた。
黒姫山の表登山道(東登山道)の入り口にある、町民の森近くに「ゴウロ」があるとのことだった。
(教えてもらわなければ分からなかった!)
通りかかっても意識しにくいところに、きちんと看板が立っている。
「黒姫山別当職 寳林禅寺 雲龍寺中之宮跡 是より250m先」と書かれた看板が、ゴウロの入り口とのことだった。

轍跡のある草道を入り、水路を渡っていくと、突如開けた場所に出る。
小高い丘の上に、石祠が3基。
ゴウロ、中の宮である。

杉と雑木に囲まれ、水音が響く、西陽の明るい窪地。
石祠は真東を向いて立っている。
文字らしきものは読み取れないので、黒姫弁財天かどうかは分からない。
左の祠は半分になっている。

よく見ると、緑に覆われた丘は、大きな岩である。
石祠と同じ、白い斑のある岩。
ゴウロは岩を産する地名であり、鉄道の敷石を採掘したということも雲龍寺さんは教えてくれた。
小高い丘の上に、石祠が3基。
ゴウロ、中の宮である。

杉と雑木に囲まれ、水音が響く、西陽の明るい窪地。
石祠は真東を向いて立っている。
文字らしきものは読み取れないので、黒姫弁財天かどうかは分からない。
左の祠は半分になっている。

よく見ると、緑に覆われた丘は、大きな岩である。
石祠と同じ、白い斑のある岩。
ゴウロは岩を産する地名であり、鉄道の敷石を採掘したということも雲龍寺さんは教えてくれた。
黒姫山の裾野の森の中だが、かつては採石場であり、材木を育てる場であったのだろう。
よく見ると灌木の下に、ところどころ巨岩が眠っている。
黒姫山の稜線が、木々の合間からはっきりと見える。
山を拝める場所だ。
たしかにここは、古い信仰の跡であると感じられた。
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つぎは、はじめに黒姫弁財天が祀られたという「五輪堂」を探す。
『町村誌』に「恵心僧都が黒姫山に登って黒姫弁財天の像を作り、五輪堂にある宝教寺に祀った」とある五輪堂である。
(このへんは別説もあるので、要検証)
ネットで検索すると、『柏原町区史』に五輪堂(遺跡)に関する記述があることがわかった。
また、踏切の名称に「五輪堂」があることから、大体の場所がつかめる。
「五輪堂遺跡」は、縄文時代と平安期の出土があり、古くから人の住んでいた場所らしい。
五輪堂踏切を起点に、黒姫山の方へ道を辿ると、古い道標に出会う。
「右 戸隠山道 左 さくば道」
と描かれている。
古道の交差する道しるべである。

『柏原町区史』昭和63年発行「戸隠山道(P.242)」には
「善光寺方面から登る表参道とは別に、柏原からは戸隠山に通じる裏道があった。宿場(柏原宿)の中心部から西側に分岐して仁之倉を経て、湯ノ入川沿いから黒姫山・飯縄山の山峡を西上して、大橋・念仏池・越水ケ原、そして中社・奥社へ通じる」
とある。
そのまま東へ行くと北国街道へつながる、往還の交差する地点である。
「善光寺方面から登る表参道とは別に、柏原からは戸隠山に通じる裏道があった。宿場(柏原宿)の中心部から西側に分岐して仁之倉を経て、湯ノ入川沿いから黒姫山・飯縄山の山峡を西上して、大橋・念仏池・越水ケ原、そして中社・奥社へ通じる」
とある。
そのまま東へ行くと北国街道へつながる、往還の交差する地点である。
詳細は不明ながら、この戸隠山道の起点に「五輪堂」があり、そこを「大昔は黒姫弁財天が祀られていた」と明治の人々が認識していたという事実がある。
位置的に、人が住みやすい平らで水がある耕地の高台が、初期の五輪堂であろうことは、地形を見れば推測できる。

黒姫山信仰には、黒姫山の位置と往来の道と水の流れ、戸隠とのつながりもあるのではないかと思わせる、わずかな記録と古い道標が、さらなる探索を誘う。
位置的に、人が住みやすい平らで水がある耕地の高台が、初期の五輪堂であろうことは、地形を見れば推測できる。

黒姫山信仰には、黒姫山の位置と往来の道と水の流れ、戸隠とのつながりもあるのではないかと思わせる、わずかな記録と古い道標が、さらなる探索を誘う。
それぞれの位置図。
紫の線は、古い街道の一部。

(ちなみに五輪堂踏切は、1987年に「球電」と言われる発光現象が撮影されたことでも有名らしく、検索の過程で不思議な画像にも出会った)